鵲森宮・森之宮神社、玉造稲荷神社(大阪市中央区)

鵲森宮・森之宮神社

中央区森ノ宮に鎮座する鵲森宮(かささぎもりのみや)

地名にある「森之宮(もりのみや)」は、元々難波森(なにわのもり)と呼ばれており、598年に新羅(しらぎ)より持ち帰った鵲(かささぎ)をこの森で飼育した事から鵲森(かささぎのもり)と呼ばれ、およそ同じ頃に聖徳太子が神社を造営した事で森之宮と呼称され地名の由来となりました。

現在は森之宮神社(もりのみやじんじゃ)と呼ばれ、日本で唯一第31代用明天皇と穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのひめみこ)を祀る神社です。

御祭神が用明天皇と穴穂部間人皇后なのは、聖徳太子の父母に当たるためで、これは589年(崇峻天皇二年)に物部守屋(もののべのもりや)との戦いで必勝を祈願された際に、勝利の暁には四天王像を造る誓いをされた事に由来します。

戦いに勝利した聖徳太子は、四天王像を造る前に自身の父母に当たる御祭神を神としてお祀りした神社を造営、その後四天王像を造り、この森に元四天王寺を創建されました。

鵲森宮の由来となっている鵲は、俗に朝鮮鶏(ちょうせんどり)とも言い、吉士磐金(きしいわかね)が聖徳太子の命によって新羅へ使者として渡った際、新羅国より持ち帰り聖徳太子へ献上した鶏になります。

御朱印

朱印「鵲森宮(かささぎもりのみや)」の右側に配される「聖徳太子創建の宮」とあるように、太子が物部氏との戦いで勝利し、自らの父母を祀った事が縁起となっています。

鎮座地

〒540-0003 大阪府大阪市中央区森ノ宮中央1丁目14−4

御祭神

-奥社-
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
月讀命(つきよみみこと)

-本社-
用明天皇(ようめいてんのう)
穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのひめみこ)
聖徳太子(しょうとくたいし)

-五幸稲荷社-
猿田彦命(さるたひこみこと)
大巳貴命(おおなむちみこと)
宇賀魂神(うかのみたまかみ)
熊鷹大明神(くまたかだいみょうじん)
烏丸明神(からすまるみょうじん)
布留魂神(ふるのみたまがみ)
天神(てんじん)
八幡大明神(はちまんだいみょうじん)

探訪記録

鵲森宮へ行くまでの道中や境内の写真になります。

JR森ノ宮駅

私はJR森ノ宮駅より参拝しましたが、Osaka Metroも併設されている為、地下鉄の利用も可能です。

石鳥居・石標

石標にある「舊名鵲杜」は旧字体表記となっており、「旧名鵲森(きゅうめいかささぎのもり)」と書かれております。

この地が鵲(かささぎ)の森と呼ばれる歴史は非常に古く、古代朝鮮半島にあった「新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、百済(くだら)」の内、新羅から持ち帰ったカササギをこの地で飼育した事に因んだ地名

拝殿

中央が拝殿、左手側が五幸稲荷(ごこういなり)、右手側が手水舎になります。

拝殿奥に見えるビルですが「鵲森ノ宮ビル」になり、最上階に奥社が鎮座しています。

祭神

もともとは本社と稲荷だけでしたが、平成8年に奥社を伊勢神宮から勧請してお祀りしているそうです。

式年遷宮の御用材を頂いたとお話されていらっしゃったので、1993年(平成5年)に斎行された第61回式年遷宮での撤下した御用材だと思われます。

奥社鎮座地:鵲森ノ宮ビル

奥社は8階に鎮座しており、鵲森宮(かささぎもりのみや)の社殿から遥拝するようにお参りが出来ます。

また、社務所にお伝えすれば実際に8階でお参りする事も出来るそうですが、時間帯や状況によって不可の場合もあると考えます。

授与品

授与品にある絵馬(えま)は、元々本物の馬を奉納したことに由来します。

馬は神様の乗り物と考えられ、別名神馬(しんめ)と呼ぶ事からその背景を窺う事ができます。

しかし、馬を奉納出来ない場合は木彫りの馬像や板絵を奉納しており、今日の絵馬にそれら名残があるとされます。

五幸稲荷

由緒書には以下が記載されております。(原文ママ)

【由緒書き】
五幸稲荷社は、火難・水難・盗難飢餓・産難を除く、宇賀御魂命を祀る日本唯一の稲荷社です。平成の遷座で猿田彦命、大己貴命、熊鷹大明神、烏丸明神、天神、八幡大明神、忌部社(手置帆負命・彦狭知命)、真目宮(布留魂命)等を合祀してあります。

(平成十一年記す)
由緒書きからいくつかあった神様を合祀して祀った事が記載されています。

歌碑/大伴家持

右側にある緑青色の石碑は、大伴家持(おおとも の やかもち)の歌になります。

「かささぎの渡る橋におく霜の 白きをみれば夜ぞ更けにける」

七夕の夜だけカササギが翼を広げて天の川に橋を架け、織姫を渡すという「鵲の橋」が中国の伝説にありますが、上記の歌は冬の歌である事からかつて鵲森宮を流れる天野川に架かっていた鵲の橋を歌ったものだと考えられています。

石玉垣建立事業のご奉賛

神社の周りを取り囲むように石や低い木が巡らされている玉垣の奉賛について書かれております。

元来、神社は今のような社殿の形式ではなく、神様が来訪された場所を樹木で取り囲む柴垣(しばがき)が古い形式でした。

鵲森宮ではどなたでも石玉垣を奉賛する事ができ、大柱(92.5㎝×18.3㎝)で35万円、小柱(15.5㎝×76.5㎝)で25万円となっています。

URL:石玉垣建立事業のご奉賛のお願い


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玉造稲荷神社

大阪市中央区玉造に鎮座する玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)

地名の「玉造(たまつくり)」は古代この一帯に勾玉を作る玉造部(たまつくりべ)が居住していた事に由来し、この職業的部民(べみん)は伴造(とものみやつこ)に統制され、勾玉や丸玉(まるだま)などの玉類(ぎょくるい)の製作に従事していました。

その事から境内には難波・玉造資料館があり、観覧料100円で勾玉に関する資料を見る事ができます。(1週間前までに予約必須)

また、豊臣家との関わりも強く大阪城の鎮守社として崇敬され、淀殿(よどどの)は社領500石の寄進、その子である豊臣秀頼(とよとみひでより)は社殿の再興や鳥居の奉納をする程に信仰が篤く、そのような歴史を鑑み、宮内庁など各方面の協力の下に秀頼公の銅像が境内に建立されました。

社伝によれば紀元前12年(垂仁天皇18年)に天皇によって創建されたとされ、飛鳥時代(592-710)に起きた蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我側の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、ご神徳によって勝利した暁に観音堂を建てたという伝承があります。

上記より聖徳太子との繋がりも深く、歩いて7分ほどの場所には鵲森宮(かささぎもりのみや)など太子ゆかりの神社も鎮座しています。

御朱印

御朱印の墨書には「玉作岡(たまつくりのおか)」と書かれており、古代この一帯が玉作岡と呼ばれていた事に因む文字になります。

鎮座地

〒540-0004 大阪府大阪市中央区玉造2丁目3−8

御祭神

主祭神
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)

-相殿神-
下照姫命(したでるひめのみこと)
稚日女命(わかひるめのみこと)
月読命(つくよみのみこと)
軻偶突智命(かぐつちのみこと)

探訪記録

鵲森宮から歩いて数分の場所に鎮座する玉造稲荷神社は、境内が広く興味深い石碑や博物館があり、改めて参拝する際には博物館の予約をした上で来たいと思いました。

石標

1872年(明治五年)にぜんこくの神社は国家の宗祀として位置づけられ、こちらの玉造稲荷神社も近代社格制度の下で区分がされました。

社格は「府社(ふしゃ)」となりましたが、その後にこの制度は廃止された為、恐らくですが石標の「玉造」の文字の下に「府社」とあるのかも知れません。

拝殿

主神はウカノミタマノオオカミですが、相殿(あいどの)として下照姫命(したてるひめのみこと)が祀られています。

日本神話に登場する女神であり、古事記では高比売命(たかひめのみこと)と呼ばれております。
※以下、タカヒメノミコトと記述

物語りでは葦原(あしはら)の中つ国を平定する為に高天原(たかまがはら)から遣わされたアメノワカヒコが、葦原中国を自分のものにしようと大国主神(おおくにぬしのかみ)に取り入って娘のタカヒメノミコトと結婚をします。

画策に気付いた高天原からの返し矢でアメノワカヒコは無くなり、タカヒメノミコトのなく声が高天原まで届き、アメノワカヒコの父や妻子が降臨して喪屋(もや)を建てて殯(もがり=古来の葬儀)を行いました。

上記の記述にあるように大国主神の娘に位置するのが相殿に祀られている「タカヒメノミコト(=下照姫命)」になります。

神紋

神紋は勾玉がモチーフとなっており、拝受した御朱印や境内の資料館にも石造があります。

境内に点在する勾玉の造形を数えまわるのも面白いかも知れません。

難波玉造資料館

境内の資料館になり、社伝による創始2000年祭の奉祝記念として1986年(昭和61年)に開館しました。

玉の歴史や日本と韓国の佩用(はいよう=身に帯びて用いる事)の違いなど興味深い展示を行っているようです。

一点面白いなと感じた事になりますが、ホームページで「この一帯で以下のような石を見つけられたら教えて下さい」と記載があったので、もしかすると未だに勾玉が出てくるのかも知れません。

梅薬師 道祖神

道祖神(どうそしん)は、道端の神として村境や峠などに祀られた神様になり、疫病や悪霊を防ぐとして信仰されていました。

写真の右側に美しく咲いた紅梅(こうばい)は、2020年(令和二年)に新型コロナウイルス感染症の終息を願って植樹されたものになり、美しい紅色を呈しておりました。

伊勢参り起点碑

江戸時代にお伊勢参りが盛んに行われ、西国から参詣した人の中には帰路で熊野や高野山を経由して、奈良や京都の社寺の参詣や大阪で芝居見物をする人もいました。

このお伊勢参りで多くの方が通った「本街道(ほんかいどう)」は大和国と神宮を結んでおり、数ある街道の中でも最短コースであれど険しい山道が多かったことでも有名です。

現在は、大阪ユースホステル協会が年末に玉造稲荷神社をスタートに数日間かけて神宮まで参拝するイベントが行われています。
URL:伊勢迄歩講

豊臣秀頼公像

境内に建立された豊臣秀頼公(とよとみひでよりこう)の銅像は、大阪城築城80周年記念の節目と同じ2011年(平成23年)に竣工されました。

秀頼公は全国の寺社仏閣に対し伽藍や社殿の再興を積極的に行った人物で、安土桃山時代(1573-1603)から江戸時代前期の大名です。

太閤・豊臣秀吉の三男で側室の茶々(ちゃちゃ=淀殿)の子になります。

秀頼公奉納鳥居

1603年(慶長8年)に神社再興として奉納した鳥居になります。

石鳥居になり、柱に対して上から水平に3本の構造物が架かっています。

最上部の反りのある笠木(かさぎ)、それを支える島木(しまぎ)、柱から突き出た貫(ぬき)を間近で観る事ができます。

元は本殿正面にありましたが1995年(平成7年)の阪神淡路大震災により一部が損傷し、上部と脚部に分けて保存しているようです。

胞衣塚大明神

胞衣塚大明神(よなづかだいみょうじん)は、豊臣秀頼の母「淀殿」の卵膜や胎盤等を祀る宮になります。

当時、母体と胎児を繋げる胎盤等を神聖なものとして捉え、それを秀頼公の分身として扱ったようです。

「胞衣(えな・ほうい)」は臍帯を含む胎盤になりますが、「よな」と読むところに何か意味があるのかも知れません。


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